
by CHRIS HEATH for GQ US
卒業式の日に
クリス・ヒース
三校の学校:
中浜小学校は海からたった百メートル程離れた平坦な海岸平野にある。小学校のウェブサイトを見ると、誇らしげに時折カニが学校の敷地内にやってくる、と書かれている。多くの日本の学校は、各学校ごとに校歌があり、中浜小学校の校歌の二番はこうだ。
聞け 海鳴りのどとろく音を 永久にかわらぬ真理とうけて
11歳の志小田紗津生ちゃんと8歳の妹のナツミちゃんは、中浜小学校の全59人の生徒の中の二人だ。堤防から三分のところにある学校の近くの家で、両親と兄と二匹の猫、ナナとジェットと共に暮らしていた。
日本は地質学的に、地球上で最も変動しやすい地域の一つだ。多くの日本の学童は、習慣的に地震のための防災訓練を受けている。そして教室が揺れ始めたら、椅子にかけてある防災頭巾を頭に被り、机かテーブルの下に隠れることになっている。二日前の3月9日の朝、マグニチュード7.2の地震があった。国際的に報道されるほど大きな地震だったが、被害は殆どなかった。子供たちは防災訓練に従って行動した。だが、井上剛校長には耳の痛い話になるが、一年生と二年生しか防災頭巾を被らなかったという。年長の生徒達にとって、防災頭巾は格好悪いからだ。
中浜小から約80キロ北にある日和幼稚園は、石巻市にあり、海から約800メートル程離れた場所にある高台を半分ほど上がった所にある。父兄たちは皆、子供たちは幼稚園に通うのが大好きだったと話す。西城春音ちゃんは6歳だった。運動が特に好きな子だった。佐々木明日香ちゃんは6歳で、折り紙で花や飛行機を折るのが好きだった。母親はいつも幼稚園に明日香ちゃんを車で送っていた。あの日、明日香ちゃんはおにぎりを車の中で食べたそうだ。明日香ちゃんはいつも幼稚園のバスに乗って帰ってきていた。あの日は、この一年で幼稚園で描いた花、動物、女の子の絵を全部持って帰ってくるはずだった。佐藤リョウタ君は5歳だった。父親の務める国土交通相の仕事の関係で、今年に入ってから家族で石巻市に引っ越して来たばかりだった。始め、リョウタ君は友達を作るのが苦手で、一人で遊ぶことが多かった。リョウタ君を幼稚園に馴染ませてくれたのは虫たちだった。触れると丸まる小さなダンゴムシを集めるのが好きで、他の子供たちにダンゴムシを見せることで友達ができた。あの日の前日、リョウタ君は帰りの遅い父親のために、生姜を乗せた焼きナスを作った。ナスに包丁で切れ目を入れて飾りも付けた。そして母親に食べちゃダメだよ、と言った。父親のために作った料理だったからだ。翌日父親が仕事に向かう為に家を出た時、リョウタ君は母親の腕の中で寝たままだった。
佐藤愛梨ちゃんは6歳だった。英語を習い、モデルをすることもあった。地元の写真館のカメラマンが幼稚園で撮影をした時、愛梨ちゃんを見つけてモデルにならないかと声をかけたのだ。最近、有名な演出家が幼稚園を訪れた際も、次の芝居のオーディションを受けてみないかとスカウトされた。地震の前日の夜、愛梨ちゃんはその話をしていたという。そんなことを友達の前でしたら恥ずかしい、と言っていた。当日の朝は、味付き海苔とご飯、そして緑茶を飲み、大好きなアニメ『名探偵コナン』を見ていた。母親は愛梨ちゃんをいつものように、幼稚園の白いミニバスが迎えに来る場所まで連れていった。バスを待つ間いつも二人でじゃれ合った。バスが来ると、母親はバスの運転手の妻である添乗員に頭を下げ「よろしくお願いします」と言った。
これら三つの学校の中でもっとも北に位置する大川小学校は、北上川河口から約五キロのところにある。佐藤みずほちゃんは12歳で、紫桃千聖ちゃんは11歳だった。二人は大の仲良しだった。みずほちゃんは英語を話すのが好きで、大人になったら通訳になりたいと話していた。また、犬を飼いたがってもいた。千聖ちゃんは一歳年下なのだが、みずほちゃんをリードすることが多かった。縄跳びや、洋裁、編み物、盆栽に陶芸品、青い空に雲、そして夕焼けのオレンジ色が好きだった。
ちょうど卒業式のシーズンだった。あの日、二人の母親は特別忙しかった。二人とも、別の学校の卒業式に出席しなければならなかったからだ。母親のかつらさんは、みずほちゃんの祖母に朝食の卵とご飯の支度を任せ、みずほちゃんは朝食後、朝の習慣通り、窓の下のソファに座って十分間漫画を読んだ。そしてその後家の前の道で、スクールバスが来るのを待った。車で仕事へ向かう父親は、みずほちゃんの横を通り過ぎる時に手を降った。
千聖ちゃんの母さよみさんの携帯電話は毎朝6時15分に鳴る。だが毎晩千聖ちゃんは、さよみさんにそれよりも前に起こして欲しいと言っていた。そうすれば「もう起きようね」と言われて一日が始まるまでの少しの間、母親の腕の中で再び眠ることが出来るからだ。でもあの日の朝はそうしなかった。やることが多くて手一杯だったからだ。
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これから複数の出来事が明らかになっていくが、これだけは覚えておいて欲しい。日本は地震や津波対策が、他国と比べて十分すぎるほど成されている国だ。だがその一方で、3月11日に起きたあれほどの惨事を誰も予想してはいなかったということを。驚異的な破壊力を持つ津波は、以前にも日本の海岸沿いを襲っている。そしてそうした天災に対する対策には多大な力が注がれてきた。海岸沿いの町の大半には、何らかの津波対策が施され、その多くが非常に頑丈な設備だ。それでも、あの大きさの津波には対応できなかった。全く予測していないものに対して準備を整えるのは困難だ。一つ例を挙げると、岩手県宮古市田老町は1895年と1933年とニ回に渡って巨大な津波の被害を受けている。津波の力を弱めるために、高さ3.6メートル、横は三キロ以上もある壁が建てられた。その壁は町が誇っているものだった。3月11日に津波警報が鳴った時、住人の中にはその壁の上に立っていた人もいたという。壁の上で何が起こっているのかを見ていれば安全だと思ったからだ。結果、彼らのような人たちと、町の大半は押し流された。
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2011年3月11日 午後2時46分
中浜小学校元教頭の笹森泰弘さんは、車を運転していた。仕事で訪れていた仙台から戻る途中だった。その時、携帯電話の地震警報が鳴った。電話には地震警報:宮城県湾岸では強い揺れに注意というメッセージが出ていた。
日本の多くの携帯電話には、地震の数秒前に地震警告を出す機能が付いている。地震は比較的与える被害が少なく震動の到達が早いP波と、我々が地震だと感知する震動を生む、震動の到達が遅いS波という二種類の揺れで構成されている。プログラム化された日本の高機能な感知システムは、P波を感知して自動的にそれを分析する。そしてS波によって揺れがやってくることを知らせる警告を送信するようになっている。(震災から一ヶ月後、私が日本に滞在した時にレンタルした携帯電話にもこの警告システムがあり、日本は余震がまだ頻繁にあったため、一日に少なくても一回は携帯電話を開き、一言「地震」という文字を見ては動揺した。そして多くの場合、その数秒後に小さな揺れを感じた)
笹森さんは、六号線の脇に車を停めた。小学校からはおよそ五分の場所だった。ラジオでは、パーソナリティーが今後のことに注意するよう警告していた。揺れ始めると、皆車を停めた。笹森さんは道路が地割れするのを見た。
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なぜ地震が起きるのかという一般科学は広く理解されている。地殻の隣接するプレートがゆっくりと移動すると、圧力と張力が高まり、猛烈に放たれるまで大きくなる。しかし大半の場合詳細は、理解するのも予測するのも難しい。今回の地震の震源は、日本の東北地方の深さ約30キロの所だ。そこは歴史的に、地殻が大きな地震を生み出しにくいと考えられていた所だった。その予測は誤りだった。マグニチュード9の、前世紀における五大地震の一つとなった地震が起きた。恐ろしいことに変わりはないが、地震そのものがもたらした直接的な被害は、想像するよりもはるかに少なかった。建物の中には倒壊したものもあり、道路にはひびが入った所もある。しかし多く見られた被害は、 本が落ちる、ガラスが割れるというように大規模なものではなかった。ここで挙げている三校にいた誰も、地震によって被害を受けたわけではない。津波なのだ。
地震の大きさと、その地震が生み出すと予測される津波との間に単純な相互関係はない。なお現在も続く3月11日の出来事を検証する科学的研究が示すには、その日の午後、海底で起きたことは特に複雑で異例なことだったという。だからこそ、海底で発生したあれほど大きなマグニチュードの地震が巨大な津波を生むかもしれないという恐怖が生まれ、緊急警報が出されたのにも拘らず、渦中の人々は実際に何がこれから起きるのかを全く知ることができなかったのだ。
中浜小学校の井上剛校長は、 テレビを見て、5〜10メートルの津波が来ることを知った。心配だったのは津波がおよそ十分でやってくるということだった。小学校の防災訓練では、湾岸平野裏の高台にある中学校へ歩いて避難することになっていた。しかしそれには20分かかる。そこで校長は、その場で判断を下した。最初、全校生徒を二階に集めた。その中には志小田紗津生ちゃんとと妹のナツミちゃんもいた。しかしすぐに校長は、二階では充分な高さがないのではないかと心配になる。二階の上の屋上には、運動会用の小道具や学芸会の劇で使う背景などを保管したり、椅子や机をしまっておく倉庫として使われている屋根裏部屋のようなものがあった。安全を期して、校長はそこに避難させることを決めた。
大川小学校では、地震発生時、翌週の卒業式に向けて高学年の生徒たちがリハーサルを行っていた。すぐに停電し、緊急時の避難所に指定されていた体育館の中では、天井の照明が落下した。下級生のなかには、スクールバスで既に帰路についていた生徒もいた。しかし地震が起きた時、運転手はその子供たちを学校に連れ戻した。そして子供たちをバスの中で待機させ、無線で「子供たちが校庭にいて教員たちは点呼を取っている。自分は指示を待っている」と伝えた。子供たちは六列に並んでいて、その中には千聖ちゃんとみずほちゃんもいた。二人は4月1日に初めてディズニーランドに一緒に行くのを楽しみにしていて、その為にお金を貯めていたという。
約800メートルも内陸にある日和幼稚園にまで津波が到達するとはとても想像しにくい。しかし地震後、園長は子供たちのことが心配だった。子供たちが寒がっていたので、できるだけ早く家に帰してあげようと思った。そして園のスクールバスを、一つだけ変更を加えて、普段どおり発車させた。なかには既に子供たちを迎えに来た親もいた為、園長は園の北と南を行く二つのルートを一つに合わせ、一台のバスで回ることにしたのだ。最初のルートでは七人の園児を、そして二つ目のルートでは、春音ちゃん、明日香ちゃん、リョウタ君、愛梨ちゃんを含む五人の園児を下ろす予定だった。そしてバスは発車した。12人の園児と、運転手とその妻を乗せて。
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中浜小学校の多くの生徒同様に、志小田紗津生ちゃんとナツミちゃんも学校の近くに住んでいた。地震が起きた時、母親のアケミさんは家にいた。ぐちゃぐちゃになった家の中を片付けるのを諦め、家の外に出ると、道に地割れができているのが見えた。娘たちを家に連れて帰ろうと車で迎えに行くことにした。志小田さんの家は海から非常に近い場所にあったが、これまでも津波が来るなど考えもしなかったという。家を出る時、志小田さんは猫たちを呼んだ。怪我をしたら大変だと心配だったからだ。ジェットだけが出て来たので、一緒に連れていくことにした。車で向かおうとしたが、道路のある部分は地震の被害がひどく、マンホールの蓋が60〜90センチほど飛び出ていたほどだった。そのまま車で家に戻り、歩いていくことにした。
学校に到着した時、人々はパニックに陥っていた。子供たちは既に屋上の屋根裏部屋にいたので、学校に残るのが一番いいと思った。他の親も、学校に避難してきた近所の住人たちも同じ考えだった。アケミさんは他の人たちと一緒に屋上まで上がる時も、あれほどのことが起きようとは予想していなかったという。以前にも津波を経験していたからだ。ただしそれは30センチ程度の津波だったのだが。
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日和幼稚園のスクールバスは、園の南側の地域に住む七人の園児のうち六人を問題なく降ろした。七人目の園児の家のドアに、日和幼稚園の建つ高台のふもとにある他の学校に子供を連れてきてください、と書いたメモが貼ってあった。
地震後、携帯での通話は殆ど不可能だった。電話が通じたとしても、すぐに切れてしまった。バスの運転手が七人目の園児を降ろすためにバスを走らせた時、彼は少しの間園の先生と話ができ、他の学校に寄ることになったことを告げた。その時までに園長は、園児を家に帰すという自分の決断を考え直し始めており、バスが学校に向かっていると聞き、二人の先生を歩いてその学校に向かわせる、という新しい指示を出した。先生たちは無事に運転手を見つけ、安全の為に園に戻るようにと告げた。そして五人の園児と運転手、そしてその妻を乗せたバスは園へ向けて出発し、二人の先生たちは高台を上がって帰る早いルートを歩き始めた。
その距離はたった数百メートルしかない。運転手が引き返してファミリーマートとセブンイレブンを通り過ぎる前に、少し海に近い南側を弧を描く様に運転しなくてはならなかったとしても、長くても2〜3分の距離だ。その後の道は日和が丘にまっすぐと続き、険しい坂になっており、海からは正反対の方向へと伸びていく。そこまで行った時点では、バスはもう少しで園に到着するところだった。
運転手はアクセルを踏み加速したが、バックミラーには、石巻市の南側にある平地に、海に向かって並ぶ家や工場が、襲ってくる波の壁に飲み込まれ崩壊していく様子が見えていた。
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津波の被害が一番深刻で、かつ予想外だった場所は、押し入ってきた水が一気に流れ込んだために流れが激しくなった湾岸沿いだった。大川小学校は海から離れているように思えるが、北上川の河口付近の海岸線は、想像もできないくらいの大津波が来た場合、その波の勢いは増幅して凝縮され、ものすごい速さで凶暴に流れを遡ることになりかねない地形をしている。そしてまさにそれが3月11日に起きたのだった。
大川小学校には、車で子供を迎えに来て既に連れて帰っていた親もいた。校庭では、教員たちが残った児童をどうしたらいいかを考えていた。そして子供たちを100メートル程内地の、橋の横にある少し土地が高くなっている場所へと連れていった。そうやって子供を連れて行ったことは、愚行でもなんでもない。連れて行く場所は高台になっている所だし、通常の水の高さはずっとその高台よりも低く、海からはずっと離れていたからだ。思い出せる限り遡った他の日であれば、そこは安全な場所と思われていたはずだ。一人の教員が校舎の中へ戻り、誰も残っていないかを確認した。出てきた時、子供たちの列は橋へと向かって歩き始めており、その列には千聖ちゃんとみずほちゃんもいた。そしてその教員も列の最後部に加わった。それはまさに水が滝のような勢いで目の前の川岸を超え、川と学校とを隔てる放水路をも超える直前だった。子供たちが前進すると、風が強くなり、おびただしい異常な音がした。
中浜小学校の小さな屋根裏部屋は壁に囲まれていて、たどり着くには平らな屋根に沿って外を数歩歩かなくてはならない。その際、紗津生ちゃんとナツミちゃんの母親は海のほうを見た。自分が何を見ているのか信じられなかった。海岸線は堤防の反対側にあるように見え、浜辺にもっとも近い所に建っていた家屋が流されていた。現実だとは思えなかった。彼女はその様子を携帯電話で写真に撮っている。午後3時52分だった。
屋根裏部屋の中は、90人がいた。子供たちは部屋の中心で身を寄せ合った。ひさしの下には、車輪のついたユニコーンがいた。怖がる子供たちを、親と教員は確信が持てぬままだったが、大丈夫だよと声をかけて安心させた。紗津生ちゃんとナツミちゃんの母親は、娘たちが友達と一緒にいるのを見てホッとした。
井上校長は屋根裏部屋の外に立ち、周りを見ていた。第一波は波というよりはうねりだったが、家屋や車を押し流していった。そして第二波が来た。校長は、その波は三角形に見えたと言う。波は自分が立っているちょうど下の二階くらいの高さがあった。そして波が校舎にぶつかった時、窓が砕け割れる音が聞こえ、教室が流されてしまうのではないかと思った。しかし建物は頑丈だった。自分の下した決断は、正しかったように思え始めた。もしかしたら、皆どうにか助かるかもしれない。
その時だった。校長は第三波がこちらに向かってやってくるのを見た。希望は薄くなった。また三角形の波だった。しかも今回は校舎の二倍程の高さに見えた。
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その後:
これほどの大災害が起きる時には、まず災害が発生し、そのだいぶ後になって、破壊された世界で、自分の愛する者たちに何が起きたのかを知ろうと人々が格闘する時間が訪れる。しばらくの間、恐ろしく錯乱した辺獄のような状態が蔓延る。 その状態では、何もかもが可能だ。既に亡くなった者はもしかしたら生きているかもしれない。生き延びた者はもしかしたら亡くなっているのかもしれない、というように。
日和幼稚園のスクールバスに子どもを乗せていた親の中には、他の親よりも早く情報を得た人もいた。春音ちゃんの母親は、津波が来る前に娘を迎えに園まで行った。すぐその後に、彼女は夫から電話で良い知らせを聞く。春音はスクールバスで園を出たけれど、バスは園に戻ってくるんだって。春音はあと少しで戻ってくるよ。
津波は、日和が丘と海との間にあった大半の物を破壊した。しかし水は丘の上までは来なかった。幼稚園自体は何の被害も受けなかった。きっと園児の親たちも安心していて、こう憶測していたはずだ。幼稚園は安全な場所だ。子供たちは園にいて自分たちが迎えに行くのを待っているはずだ、と。
しかし、この五つの家族にとってはそうではなかった。バスの運転手が一人で再び現れた時、春音ちゃんの母親はまだ幼稚園にいた。運転手は混乱した様子で、何が起きたかを説明はしていたが、つじつまが合っていなかった。最悪なことが起きたことだけは間違いなかった。他の親にその知らせが伝わったのは後になってのことだった。なぜなら家や町が浸水したり、電話が通じなかったり、電力や飲み水が不足していたからだ。どこかに行こうとすれば、油にまみれ、匂いを放ち、まだ流れが止まない水に肩まで浸からなければならなかったし、道路の上を流れる船の横を通っていかなければならなかった。津波が来た日の翌日、明日香ちゃんの祖母は幼稚園から徒歩で数分の場所へと連れて行かれ、全焼したバスを見せられた。愛梨ちゃんとリョウタ君の両親は翌日にそのことをを知らされた。
最終的に親たちが聞かされたのは、運転手は安全な場所から何メートルも離れた場所にいたというものだった。運転手によると、目の前の道が高くなっているのを見て、全員が助かると思ったそうだ。高いところまで行けば、混沌と死から守られるはず、そしてある時点まで、確かに運転手は必ず助かると思っていた。しかし、運転手は通常の秩序や論理が通用しない悪夢の世界にまさに捕らわれようとしていた為、一軒の家屋が目の前の道を塞いだのだった。
「3秒早ければ」と運転手は言った。「こんな事にはならなかったのに」
運転手はバスの中で首のあたりまで水に浸かったと言う。その上記憶を失い、何が起きたのか、バスからどうやって脱出したのか覚えていないと話す。(当初、日本では運転手は意識を失い、目覚めると建物の屋根の上で倒れていたと報道された)もし親たちの中で、彼が記憶を失ったという説明に疑惑を感じる者がいるのであれば、このことが見過ごされているのかもしれない。運転手の妻が未だに行方不明だということを。
その日、水と瓦礫が散乱する中、多くの火事が発生し、広範囲に渡って激しく燃えた。その一つが日和が丘のふもとで起きた火事で、スクールバスがあった場所だった。近くのガソリンスタンドから漏れた石油に引火したのかもしれない。原因は何にしろ、そこにあったものは全てこれ以上燃えないというくらいまで燃え尽きた。スクールバスも、その中にいた人間も。
一ヶ月後に、川を渡る橋を過ぎた所のカーブを曲がると、 かつては千聖ちゃんとみずほちゃんが校庭で遊んでいた、今では大破した大川小学校が見えた。それは茶色い土で覆われた広い平地に残った、建物だと認識出来るたった二つの骨組みの一つだった。
私は間違って理解していた。その日の午後、大川小学校の校長にインタビューを承諾してもらえるように説得しようとしていた時のことだ。校長は地震と津波の発生時、娘の卒業式に出席するために外出中だった。間借りしている校舎の職員室の外で待たされた。一人の教員に、インタビューの事前に質問事項を書いた紙を渡すように言われた。重苦しい空気が流れていたが、一瞬だけ変化があった。私が渡した質問を書いた紙を見て、校長とその教員は一つの質問を指差して笑ったのだ。もちろんその笑いは明らかに悲痛の中で生まれる笑いだったのだが。その質問とは、学校の周りの村ではどのようなコミュニティーや生活があったのか、というものだった。
教員が来て説明してくれた。
「村ではないんですよ」と彼は言った。「市なんです」
2011年の始めに大川小学校に通っていた108人の生徒のうち、たった34人が生き残った。そのほとんどの児童が、津波が襲う少し前に迎えに来た親と共に帰った児童だった。学校に残っていた者の中で、そして津波が来た時に、学校と橋の間にいた者の中で生き残ったのは四人の児童と一人の教員だけだった。(約十人の教員が亡くなり、運転手も亡くなった)
生き残った五人は全員、大川小学校の裏の山に行き着いた。一人の男子は気づいたら木に掴まっていた。彼は二人の男子が半分泥の中に埋まっているのを見たという。一人の男子に向かって腕を伸ばし引き上げた。もう一人は助けられなかった。最初、海岸線に沿って歩こうとした。しかし、水の中にある遺体が怖くて山を登った。少しすると山の中に逃げてきた地元の人達に発見され、そこでじっとしていた。凍りつくような寒さを凌ぐために皆で集まって火を起こした。津波が来た直後から雪が降り始めた。偶然なのか、津波が原因なのか、ちらちらと降る雪ではなく綿アメのような大雪が降った。午後4時42分に地元の人が破壊された校舎の残骸を撮った写真によると、松の木が二階の窓に突き刺さり、風景全体は真っ白な雪に覆われている。あれほどの大災害があったすぐ後に、自然がもう既に、このような静寂の毛布を破壊された土地の上に被せたなど、あり得ないことのように思えた。
生き延びた教員、遠藤真二さんは学校で最後まで掃除を行っていた為、一番最後に校舎を出た。波に飲み込まれたが、他の人よりも対応する時間があったと思われる。山の方に行くと、ちょうど少し上の方に男子児童がいたので、「上に行け。上へ!」と誘導し、二人は一緒に山を登った。遠藤さんは靴と眼鏡を失くし、殆ど何も見えなかったので、男子児童が先導したという。暖かくするために、松の木の幹を覆っていた虫除けのブルーシートを剥がした。葉っぱで身体を覆った。寒過ぎたので、少しすると山を越えて助けを求めることにした。そして最終的に救助隊員を見つけた。
翌日、地元の消防団たちは船を出し、大川小学校に生存者がいないかを探しに行った。雪の中にいくつかの足跡を見つけ、その先に女子児童を発見した。その子は、近所の年老いた男性と共にいたのだが、その男性は凍死したと話した。彼女は生存が確認された最後の児童だった。
彼女の名は千聖でもみずほでもない。
地震の日の夜、千聖ちゃんの両親は家で再会した。しかし、家は浸水こそしなかったが、安心だとは思えず車の中で一晩を過ごした。翌日、千聖ちゃんの父親は妻のさよみさんに千聖ちゃんを家に連れ戻してくると言った。さよみさんはおにぎりを握り、帰りを待っていた。午後、夫は三体の遺体が学校で発見されたことを知り、さよみさんに希望は捨てたほうがいいと話した。さよみさんはそれを拒否した。しかし、それまでにはもう、トラックが夫婦の娘の遺体を乗せて家の前を通り、隣町に作られた仮の遺体安置所へと運んでいたのだった。千聖ちゃんの遺体はさよみさんが靴のかかとに書いた名前によって身元が確認された。
一日目の夜、みずほちゃんの母親のかつらさんは、倒木や道路の表面にできた地割れなどを警戒する警察の道路規制をくぐって帰宅した。消防団の一人に大川小学校のことを聞くと、子供たちは今日は家には帰れないが、明日になれば救助されるだろうと言われた。しかし、誰も帰っては来なかった。
津波から三日後、みずほちゃんの両親は船で小学校まで連れていって欲しいと知り合いに依頼した。今は崩壊し通行不可能な橋の近くでは、発見された20〜30体の大人や子供の遺体がビニールシートの上に横たえられていた。みずほちゃんの父親の敏郎さんは遺体を一体ずつ確認し、娘の友だちだとわかる度にその子の名前をプラスチックテープの上に書いて顔を拭いてやった。多くの遺体は、亡くなったその瞬間の姿勢をそのまま凍らせたように見えた。「もし子どもが砂を握り締めていたら」と、敏郎さんは拳をきつく握りしめる仕草をして言った。「津波が来たその瞬間のままで固まってしまったんですよ」みずほちゃんの表情が自然だったことに救われたという。履いていた靴だけが見つからなかった。「多分、一撃で亡くなったんだと思うんです。まるで眠っているようでね。口の中には泥が全然入っていなかったんです。溺れたんじゃないんですよ」
遺体が移送されるのにもう一日要した。まだ未確認の遺体がある為、大半の親は子供を見つけても、四〜五日間は家に遺体を置いておかなければならなかった。
浜辺をぶらぶらとしながら、次から次へと浜に寄せてくる波を見たり、押し寄せる波のうねりが高くなり、頂点に達し、その先で崩れていくのを見たり、どの波が浜辺の一番遠くまで届くのかを想像したりしたことがある人ならば、それらの波の動きには多くの要因があることに気づいたはずだ。大くは、タイミングで、また波が到達する一瞬が、海に向かって引いていく前の波が起こす引き波といかに結びつくかということが要因だ。時折、海岸に近づいた時には最大に見える波が、海に向かって引いていく水の勢いによってかき消されることもある。
それと同じことが奇跡的に、津波の第三波が中浜小学校に向かって巨大な姿を表した時に起こった。井上校長が見たのは、第三波が学校に向かって、というよりも学校の高さを超えてうねりを上げた時、二波目の残りはすーっと引き三波目と合体した。そのニ波の残りは完全には三波目を消し去りはしなかったが、充分小さな波に変えた。三波目は荒れ狂うようにもう一度うねりを上げ、校舎の二階部分を通過した。屋根裏部屋の壁と壁との間のつなぎ目から小さな水しぶきが入ってきたものの、中にいる90名は無傷だった。四波目も来たが、大丈夫だった。少ししてから、校長はこう皆に告げた。「危険は去りました」
彼らはまだ、瓦礫と水に囲まれた破壊されたコンクリート製の建物の屋根裏部屋にいた。凍りつくような寒さの夜で、食料はなかった。水位が下がると、教員らが体育館に保管していた密封されたアルミの袋に入った毛布を出してきた。子供たちはこの毛布と、防災頭巾を枕にした。教員たちは屋根裏部屋の中にある物を使って、二つの簡易トイレを作った。男子用は、神輿の一部だった木の樽で作った。女子用には六年生のタイムカプセルとして使っていたプラスチックの入れ物を使った。
夜明けからすぐに彼らは発見され、ヘリコプターで近くの高台まで移送され避難した。
喜びにひたっているわけにはいかない。他の場所では沢山の人々が亡くなった。そして両親や、友人や、親戚や、住む家を失った人々は未だに現状を理解できていないのだ。しかし、海岸付近の、ところどころ色あせたボロボロの建物の骨組みだけが残る海岸線地帯で、津波発生時に中浜小学校にいた、紗津生ちゃんとナツミちゃん、そして母親のアケミさんを含む全員が助かった。
それから:
悲しみは普遍的なこともあるが、完全に私的で個人的なものだ。しかし、文化によって特徴的な悲しみ方がある。多くの国では人は、表面的な違いの下に、あらゆるものに共通するものを見つけようとする。ところが日本では、表層的な類似点の下に、外国人が決して理解出来ず、存在すら認識し得ない違いが存在するような気がする。
嘆き悲しむ親たちについて言えば、私はしばらくして彼らがあることを決して口にしないことに気がついた。彼らはどれほど3月11日の出来事が予期せぬ前代未聞のものであったのかということを認識しているのに、それを運命ののせいにしない。運命に言及することすらなかった。また誰も一度も、神の存在を口にしなかった。「どうして神はこのようなことを起こすのか」と懇願することもなく、「全ては神の計画通りだ」と容認することもない。そういったものが欠落するなかで、親たちの最初の反応は大半の場合、ある種の怒りのように思えた。
あのような悲劇に直面すると、恐らく「もしこうだったら?」と考えないでいることは不可能なのだろう。日和幼稚園のバスの場合に関しては、その「もしこうだったら?」のリストは悲惨なまでに長くなる。もし園長が園児を自宅に帰そうと決めなければ?(園児は生きていただろう)もし彼が二つのバスのルートを一つにしなければ?(恐らく園児は助かっただろう)海と園との間の平地へと迂回するようにというメモがドアに貼ってなかったら?(恐らく園児は助かっただろう)もし、送られた二人の先生が園児を一緒に歩いて帰らせていたら?(園児は生きていただろう)
大川小学校の悲劇の場合では、たった一つの質問を親たちは何度も何度も繰り返している。なぜ先生たちは単純に子供たちを連れて学校の裏山を登らなかったのか?(児童は生きていただろう)先生たちは地震の後の倒木を心配していたからだ、という生き残った教員による返答は却下された。
どの場合においても、怒りの多くは園長や校長に向けられている。子供の死を彼らのせいにしたくないとしている親たちでさえ、震災後の園長や校長の態度は受け入れるに程遠いと感じている。私が聞いた様々な非難のなかには、死者や嘆く親族を充分に認識していないというものや、今後の学校のことに重点を置くような無神経な発言をした、亡くなった子のためにも生きようと生き延びた生徒たちに言った、適切なタイミングで説明会を開かなかった、遺体を探しに行かなかった、自分の(校長や園長の)家族の要求を児童の親の要求よりも優先した、目の前で起きた惨事よりも自分たちの将来のキャリアの心配をした、自宅に帰って薬を取りに行くというような自己中心的な行動をとった、涙を流さない、などがある。
日和幼稚園の園長の場合は、もっと過激な非難の声が上がった。ただ、他の説明が明らかにその非難の声と矛盾しているため、それを辛い悲しみのさらなる表現として捉えるのは難しい。しかし、バスの残骸はあの日の夜遅くになって引火したと信じている人たちがいる。そして、もっとも極端な非難の声は、現場の近くに住んでいる床屋が、その夜、暗闇の中で泣く子供たちの声を聞いたが、どこからその声がするのかわからなかったと言っていたというものだ。
不可解で悲痛な間違いは起きなかったと言っているのではない。
子供たちが亡くなった三日後、日和幼稚園のバスが燃え尽きた場所で数人の親たちが集まった。錆びた骨組みとなったバスは丘のふもとに広がるねじ曲げられた金属の海の中にあった。日本の慣習通り、花と子供たちが好きだった菓子や飲み物をバスにお供えした。
彼らの世界は完全に変わった。バスさえも、全く異なった外観となった。この焦げた骨組みが子供たちを毎日送り迎えしていたあのバスと同じものだとは思えなかった。
春音ちゃんの父親の西城靖之さんはスクールバスを探し続けた。自分の娘が亡くなったバスを、だ。何か納得いかない気がした。目の前のバスは、自分が知っている園の小さいバスとは違うように思えた。園からこのバスだと言われ、その前で祈りお供え物をしたバスを慎重に見てみると、初めてあることに気づいた。バスの後部に真っ黒に焦げたゴルフセットがあったのだ。
違うバスだ。
近くの瓦礫を探した。そしてすぐに本物のバスを見つけた。それだけではない。その近くに、バスの外に投げ出された五人の子どもの遺体があった。
地震からの数週間、学校にいた全員が無事だった中浜小学校の校長はヒーローのように扱われた。我々はいつもそうだ。今回のように突然、想像もしなかったような災難が襲った時、善意ある行動をとった、とらないという意味で誰かをヒーローだとか悪人だとかと言うことにどれほど意味があるのだろうか。最善だと考えて校長が下した決断が、結果として人々の幸福と安堵の念を生んだことは間違いない。彼は自分の責任下にある人々のことを思いやり、その決断を冷静に下したのだろう。そうして生き延びたことを静かに喜ぶことは悪いことではない。しかし、事実を見てみよう。十分で津波が来るという警告を受け、校長は子供たちを屋根裏部屋へと連れていった。それは聡明な決断だ。でも実際に津波が来たのは30分近く経ってからだ。つまり、結果として、校長が避難訓練の手順に従って中浜小学校裏の高台にある学校へと避難することにしたとしても、充分に時間があったことになる。そうしたら人々は屋根裏部屋に取り残され、そこで一夜を明かすこともなかった。想像してみて欲しい。もしあの第三波が屋根裏部屋を襲い(まさにそうなりそうだったのだが)中にいる全員を押し流し、井上校長も彼が下した決断をも一緒に流し去っていたらどうなっていたか。彼もまた、避けられたかもしれない死に子供を向かわせるような、不可解で誤った行動をとったもう一人の校長として扱われたのではないだろうか?
逆に、大川小学校の児童が山の傾斜部分へ逃げ、木が倒れてきたり、山の一部が崩れたり(以前にも実際に起きたようだ)したら? そして津波が橋に押し寄せて来さえしなかったら? もし日和幼稚園の園児達が小学校から先生たちと一緒に歩いて帰ってきたら? そしてバスだけが園に無事に戻って、歩いてきた人たちが助からなかったら? そしてどの学校の場合においても、津波が仮に二倍の大きさだったら? あらゆる可能性を考え始めるときりがない。そしてそれぞれの、予測不可能だったことが少し予測可能だったかの如く少し手が加えられたシナリオは、新たな愚か者を生み、新たなヒーローを生む。
想像を超える出来事が起きた後で、過去を振り返り、救済が可能であったと考えるのは簡単だ。子供たちを高台に連れて行く。子供たちを幼稚園に留まらせる。子供たちを屋根裏部屋に移動させる。しかし、空から岩が落ちてきて世界が終わろうとしている時、どこに立っていればその岩に当たらなくてすむかを知ることはできない。
私たちは説明を求めている。逃避や悲劇の物語の余白を求めている。そうして何が起きたかを理解しようとし、何を失い、何を失わなかったかに焦点を当て、大切に心に留めておこうとしているのだ。そしてどの時も、誰かが必ず責められなければならないのであれば、また全てにおいて、もしかしたらこうであったかもしれないというのがあるのであれば、恐らくそれは生き残った人々の気持ちを楽にするのだろう。たった今も、どこかの高地の上にある雨雲が、下を流れる川を氾濫させようとしていて、火山のマグマが圧力を高め、海底の二つの地盤プレートが歪み、猿から人へとウイルスが感染し、遠くの暗い空では竜巻が発生しようとしている。実際に発生するとしたら、そしてもし我々が幸運であれば、このような我々が既に抱いている恐怖のなかの一つが発生することになる。もし運が悪ければ、他のことが発生する。我々が思いつきもしないことが起きるのだ。そしてもしそれが起きたらどうしたらいいのかを我々は知りたがる。そして賢い選択をしたいと考えるものだ。
なによりも我々は、賢明な選択が常にあるはずだという幻想にどっぷりと漬かっている。
私は千聖ちゃんの母親とみずほさんの両親と、みずほちゃんが住んでいた家で会うことができた。彼らはその日の朝、新たな子供の遺体が発見されたことを教えてくれた。そして大川小学校の卒業アルバムの笑顔の子供たちを見ながら、どの子が友達で、どの子が生き延びどの子が亡くなったかを指で示してくれた。みずほちゃんの父親は、娘が所属していた六年生のクラスのページを開くと「21人中、16人が亡くなったんです」と言った。
話している時、みずほちゃんの祖母が包みを持ってやってきて、ゆっくりと広げた。中には、12歳の少女の洋服が洗濯され畳まれて入っていた。祖母は一枚一枚見ていった。みずほちゃんが亡くなった時に身につけていた黒の靴下には「LOVE」と、ロバート・インディアナの60年代の彫刻のような文字が書かれていた。みずほちゃんの母はみずほちゃんが着ていたターコイズブルーのダウンジャケットを持ち上げて、背中の破れている部分を見せてくれた。中の詰め物が飛び出していた。「見つけた時、娘の背中には痣があったんですよ」(ここでも私はある違いを感じた。子供を亡くした夫婦の家で会話をしている間、みずほちゃんの兄や姉が出入りし、時にこちらに興味を向け、時に何事もないようにしていた。夫妻は会話の中に出てくる悲惨で生生しい残酷な話を子供に聞かせたくないからと、子供たちを退出させはしなかった。米国の家庭では間違いなく、子供はその場にはいさせてもらえない)
みずほちゃんの家に滞在して二時間もした頃、小さ目の地震があり、部屋が揺れた。彼らは大して気にしていないようだった。
「娘の人生はぎゅっと凝縮していたように思います」と、千聖ちゃんの母親のさよみさんは言う。私が会った親たちの中で、彼女の悲しみはもっとも制限されていないように思えた。さよみさんは一時間近く話し続けることもあり、穏やかに語る安定した状態と悲痛なほどの興奮状態をゆっくりと繰り返した。「毎日」と彼女は話す。「私の携帯電話の6時15分の目覚まし時計に起こされるんです。夕方になると、娘が見ていたのと同じテレビ番組が始まります。でも、四時半になっても娘は学校から帰って来ないんです。お友達とお話してるのかな、それともお友達の家に行ってるのかな、って思うんですが、五時になっても六時になっても、いくら待っても帰って来ないんです。毎日、毎日待っています。帰って来ないのはわかっているんです。でも娘は『行ってきます』と言って家を出ていったので、必ず帰ってくるんです」
紗津生ちゃんとナツミちゃんの母親が家の物で何か残っているものはないかと探しに行ったのは、中浜小学校の屋根裏部屋に避難した人々が皆無傷で外に出られた日の二日後のことだった。家自体はさながら、見慣れた目印となる建物や標識が跡形もなくなっていた為、自分の家がどこにあったのかを知ることすら難しかった。志小田家の七人は避難所として使われている学校の体育館で暮らしている。彼らに与えられた場所はバスケットボールのゴールに近い場所だ。それほど悪くないと感じた。ペットを連れてくることは禁じられているので、ジェットはボランティアの人が安全な場所で面倒を見てくれているという。もうすぐ一緒にまた暮らせるようになるのだそうだ。(ナナは行方不明のままだ)母親のアケミさんはいつ避難所を出られることになるのかわからないと話す。今度の家は海から遠い所にあるのがいい、と。
紗津生ちゃんは津波が襲ってきた時、屋根裏部屋の中で友達と、寒いね、早く家に帰りたいねと話していた。そして家ともう一匹の猫のことが心配だったそうだ。でも、夜にはお笑い番組『爆笑レッドカーペット』の話をして冗談を言い合った。
「皆で笑ってたの」と紗津生ちゃんは言う。「笑ってて、男子の一人が屋根に頭をぶつけたの」他にも楽しかったことはまだある。「男子は変なことをやったりしてたよ。それで女子はそれを見て笑っていたの。男の子って変だから」
妹のナツミちゃんは、この避難所で友達と楽しく遊んでいるという。動物を描くのが好きだと教えてくれた。
私がどの動物が一番好きなの? と尋ねるとナツミちゃんは、
「猫」と答え、「二匹猫を飼ってたから」と言った。
子供を失った家族の家の居間には、 死者を祀る仏壇があり、子供が好きだった食べ物、菓子、飲み物が積まれていた。訪問すると始めに、仏壇の前に跪き、黙祷し、線香を点け、香立てに立て、また祈り、鐘を鳴らす。今回の滞在で、この慣習は私が望む以上に身に付いてしまったようだ。
仏壇の真ん中には、子供の写真が飾ってあり、中にはプロによって撮影されたものもあった。その写真は、日和幼稚園で子供を失った親たちが卒園式に持っていった写真と同じものだ。リョウタ君は、写真の中で満面の笑みを浮かべている。蝶ネクタイと一緒に、カメラマンに着せられたという白い羽を背中に付けていた。私が跪くと、リョウタ君の母親は半ば申し訳なさそうに呟いた。「息子は本物の天使になったんです」
日本での訪問ではどれも、まさに胸が張り裂けそうな思いをした。どの訪問も同じ理由で悲痛だったのだが、それぞれの家庭にはそれぞれ異なるエピソードがあった。二本の乳歯が抜けた口を開けて春音ちゃんが笑っている仏壇の横で、母親の江津子さんはピンクの携帯電話を手にとり私にある録音を聞かせてくれた。それは去年、ラジオ石巻の「みんなの夢冒険」という番組のパーソナリティーが日和幼稚園に来て、子供たちにインタビューをした時のものだった。二人の声が聞こえた。
お名前は何ですか?
西城春音です!
幼稚園では何をするのが好きですか?
鉄棒です!
大人になったら何になりたいですか?
幼稚園の先生です!
訪問した家を去る前に、仏壇に最後の挨拶をするのが慣習だ。その時、私は春音ちゃんの歯が抜けている笑顔のことを口にした。そうすると父親の靖之さんが、スクールバスの近くで子供たちの遺体を発見した時のことを詳しく話し始めた。彼はとても落ち着いた様子で静かに話した。恐らく、自分が知っていることで、他の誰もが心からは理解できない事を、もう少しだけ私に伝えようとしたのだと思う。
一人の父親が、津波に襲われ、火事に巻き込まれた娘の身体の一部を見て、どうにか自分の娘であると確認しようとしている様子を想像できるのであれば、実際はその想像をはるかに超える凄まじい場面だったと考えていいだろう。もしその想像に耐えられないのであれば、今すぐにこの誌面から目をそらして欲しい。
靖之さんは、子供たちの遺体が燃え尽きていた様子を説明してくれた。最初、どれが自分の娘なのかわからなかったそうだ。でも、彼は気づいた。
「娘は」靖之さんは感情を交えずに言った。「足も腕もなかったんです。でも歯が…」
時間が経過するにつれ、我々は、大災難の悲しみを癒すために、奇跡に目を向けることがある。偶然という名の大釜に、溢れる程人々が投げ込まれれば、その中には奇跡があるものだ。津波が襲った二日後、15キロ先で、自宅の家の屋根の上で漂流しているのを発見された60歳の男性。80歳の女性と10代の孫息子は石巻市の自宅の下にはまって出られなくなっていたところを津波発生から九日後に発見された。もちろん、中浜小学校の屋根裏部屋にいた90名もそうだ。そして学校裏の山に投げ出されて助かった、大川小学校の四人の児童と一人の教員。でも結果として、こうした奇跡に目をやることは、自分自身を騙すことになる。そうやって誤魔化すことで我々の関心を逸し、嘘のようなもので自分たちを救おうとするのだ。2011年3月11日、奇跡は起きた。しかし起きたことの大半は、たくさんの恐ろしい悲劇だったのだ。あの日、そしてその後に何が起きたのかを知るための手がかりとして、この言葉に耳をすませて欲しい。千聖ちゃんの母親が娘と再会した日のことを話したこの言葉を。そしてその話を何万倍にもして想像して欲しい。一つ一つの惨劇にはそれぞれ悲惨さがあり、それらの殆どは決して語られることはない。
「私の姉が、『ちーちゃんを見つけたから、迎えに行ってあげて。待ってるよ』って言ったんです。娘が生きているかどうかなんてわかりませんでした。夫と義兄と私は車で向かいました。でも、車は避難所に向かわないんです。だから、『どこに連れていこうとしているの?』って聞きました。二人とも黙っていました。ずっと聞き続けたんです。でも、答えはありませんでした。着いて、夫と義兄が建物の中に入って行きました。多分書類を書いていたんでしょう。私は車の中で待っているようにと言われました。でもとても待ってなんていられませんでした。遺体にはブルーシートがかけられていました。近くに行こうとしましたが、行くなと言われました。そして夫だけが行ったんです。夫に「千聖じゃないよ」って本当に言って欲しかった。でも夫は頷いたんです。そして義兄が私をそこへ連れていきました。走りました。私の娘でした。私の大切な、大切な娘でした。ブルーシートの中にいました。娘は裸で、洋服はひどい汚れでビニール袋の中に入れられていました。ゴミ袋のような袋です。全部が汚れていました。あの時はまだ水もありませんでした。水がなかったんです。義兄が葬儀屋の知り合いに連絡をしてくれて、水を持ってきてくれるように頼みました。娘の身体は全身が油まみれだったからです。葬儀屋の方がお湯の入ったポットを持ってきてくれて、二枚のタオルをくれました。娘の身体をお湯とタオルで拭きました。たくさんの小さな葉っぱが張り付いていました。葉っぱと泥と埃が身体全身を覆っていました。私は自分の洋服で娘の身体を拭きました。髪の毛はヘドロで真っ黒になっていて、くしは通りませんでした。顔の皮膚も見えないような状態でした。耳は汚れ、目も汚れていました。娘の目を開くたびに、隙間からヘドロが出てくるんです。お願いだから目を開けてと言いました。ヘドロが出てくるので、それだけの水では完全にきれいにすることはできませんでした。だから、舌で娘の目を舐めてあげたんです」
Published: July 2011, translated to Japanese by fixer / interpreter: mozawa
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